
あの日の講義のことを、今でも覚えている。
※DVD『紳竜の研究』を題材にした再構成エッセイです
場所は吉本のNSC、大阪校の一室だった。窓の外には梅田の高いビルが見えていて、教室の中はクーラーが効きすぎて少し寒いくらいだった。並んだ若い顔、夢を持って入ってきた連中の顔、その前にスーツでもジャージでもない、よれたシャツ姿の男が立った。島田紳助。当時、テレビで見ない日のなかった人だ。
その人が、開口一番こう言った。
「俺は、なんで売れたかわかってる」
誰も笑わなかった。笑えなかった、というほうが正しい。
黒板に書かれた、たったひとつの式
紳助さんは、白いチョークで黒板に大きく書いた。
「X × Y」
それだけだった。
最初、誰もが「努力と才能の話だろう」と思った。よくある話だ。才能のあるやつが努力すれば伸びる。なければ努力で補え。そういう話だと思った。
でも、紳助さんは違った。
「Xはな、自分の能力や。何が得意で、何が向いてるか。Yは時代や。今、世の中が何を求めてるか。このふたつを掛け算するんや。Xだけ磨いても売れへん。Yだけ読んでも中身がなかったら一発屋で終わる」
教室は静かになった。
「ええか、自分が何ができるかを知らんやつは、絶対に売れへん。これは才能の話やない。観察の話や。お前ら、自分のこと、ちゃんと見たことあるか?」
二十歳のガキに、自分のことなんてわかるわけがない。みんな漠然と「面白くなりたい」と思ってここに来ていた。それで十分だと思っていた。
紳助さんに言わせれば、それが一番ダメだった。
ノートの話
紳助さんは、若い頃にずっとノートをつけていたと言った。
ただ漫才を見ていたんじゃない。テレビで流れる漫才を録画して、家に帰って、一字一句、全部文字に起こした。やすしきよし、Wヤング、いくつものコンビ。一本の漫才を、紙の上に文字として並べ直した。
「文字にすると見えてくるもんがあるんや」
低い声だった。
「どこでボケて、どこでツッコんで、どの順番で何を言うてるか。何秒しゃべって、どこで間を置くか。文字にしてみたら、笑いには形があるんがわかってくる」
紳助さんは、それを「方程式」と呼んだ。
このパターンの時、客はこう笑う。このリズムで来たら、次はこう外せば必ず取れる。やすしきよしの漫才を分解して、笑いの構造そのものを抜き出していった。何冊ものノートが、笑いの設計図になっていった。
ここで多くの人間は「すごい努力だ」と思う。でも、紳助さんが言いたかったのは、そこじゃなかった。
「文字に起こすのが偉いんちゃう。文字にしながら、何を見つけにいってるかや」
ネタを覚えるためじゃない。誰のものでもない、笑いそのものの構造を見ようとしていた。表面のなぞりと、その下で動いているものを見ることは違う。
紳助さんが何冊もつけたノートは、ネタ帳じゃなかった。笑いの設計図だった。
「向いてないやつは、辞めろ」
講義の中盤、空気が一番重くなったのはここだった。
「向いてないやつは、辞めろ」
会場が、静まり返った。
夢を持って入ってきた若者たちに、業界の頂点にいる人間がそう言う。残酷に聞こえる。けれど紳助さんの声は、突き放しているようには聞こえなかった。
「これはな、優しさやで」
低い声だった。
「向いてへんのに続けたら、十年経って気づくんや。あの時辞めとけば、別の人生があったって。俺はそれを見てきた。何人も見てきた。だから言うてるんや」
そして、続けた。
「ええか。自分のXがわかってないやつは、Yが来ても乗れへん。波が来てるのに、サーフボードの乗り方知らんかったら、ただ溺れるだけや。海に出る前に、自分にサーフィンの才能があるか見極めるんが先や」
ここで、紳助さんは少し声を落とした。
「でもな、勘違いすんなよ。一生懸命やって辞めるのと、何もせんと辞めるのは、全然ちゃう」
教室の空気が、また締まった。
「本気でやったやつはな、売れへんでも、次のチャンスが来る。芸人で売れんかっても、別の場所で必ず誰かが見てる。あいつは本気やったな、って。その本気は、どこ行っても通用するんや。だから次の扉が開く」
それから、声がはっきり強くなった。
「逆にな、ここで何も努力せんかったやつは、何やってもあかん。芸人辞めてサラリーマンなっても、商売始めても、何やっても中途半端で終わる。それは芸人の問題ちゃう。そいつの問題や。本気でやったことが一回もない人間は、人生のどの場面でも本気になられへん」
逆説だった。
「諦める」というのは、夢を裏切ることじゃない。自分を正しく見ることだった。自分のXが何かを見極めて、それが今の戦場で商品にならないとわかったとき、別の戦場を探すのは敗北じゃない。むしろ、そこまで本気でやって自分を観察できた人間にしかできない、ひとつの勝ちだった。
そして、本気でやった経験そのものが、次の戦場へのパスポートになる。手を抜いた人間には、そのパスポートが永遠に発行されない。
笑いを目指していた若者たちの何人かが、はじめて怖い顔になった。自分は本気で、自分のXを見たことがあるか、と。本気でやれていない自分を、誤魔化していないか、と。
紳竜という、ふたりの話
紳助さんは、相方の松本竜介さんのことを話した。
竜介さんは、ルックスのいい男だった。声がよく通って、舞台に立つだけで華があった。けれど紳助さんは、竜介さんに憧れていたわけじゃない。
「俺はな、竜介の才能に賭けたんやない。竜介の見た目と、俺の頭、これを掛け算したら売れる、そう計算したんや」
冷たい言い方に聞こえるかもしれない。でも、それが紳助さんの言う「観察」だった。自分にできること、相方にできること、そのふたつを正確に見て、組み合わせを設計する。憧れでも友情でもなく、設計だった。
「俺がしゃべりで前に出る。竜介はそれを受ける。その役割分担が、あの時代のYに合うてた」
紳助さんは、自分のXを徹底的に探した。早口でまくしたてること。理屈で押すこと。客をいじること。それが商品になる時代だと読んだから、その方向に振り切った。竜介さんの華と、自分の頭。ふたりを掛け算した時に、何が立ち上がるかを設計した。
そしてふたりは、漫才ブームのど真ん中で、日本中に名前を知られることになる。
「相方を超えようとしたら、終わりや。比べる相手やない。組み合わせる相手や。それは、相方を観察せんと見えてこん」
ライバルを倒す話じゃなかった。隣にいる人間を正確に見ることで、自分にしかできない場所が浮かび上がる、という話だった。
これは、芸人の世界だけの話じゃない。
職場でも、学校でも、隣の席のあいつには勝てない、と思った瞬間に、人は何かを諦める。けれど本当はそこからで、「あいつと自分を掛け算したら、何ができるか」という問いが始まる。
紳助さんは、その問いを二十歳の自分に向けて、ずっと立て続けた人だった。
売れるのは、一回だけ
講義の終わりが近づいた時、紳助さんはふっと黙った。
そして、目に涙を浮かべて、こう言った。
「売れるってな、一回だけやねん」
教室の誰もが、息を止めた。
「人気が出て、テレビ出て、街歩いたら声かけられて。あれはな、人生で一回だけや。二回はない。何回も売れてるように見える人間もおるけど、ほんまに『売れた』って瞬間は、一回だけなんや」
声が少し震えていた。
「俺な、それが青春やったと思う」
笑いの設計図を作って、Xを磨いて、Yを読んで、相方と組み合わせを計算して。全部やった先に、たった一回、波が来た。その波に乗れた瞬間がある。それが終わってからは、ずっとその余韻で生きてきた、と紳助さんは言った。
「だからお前らな、その一回のために生きるんや。その一回が来た時、乗れる自分を作っとくんや。来てから準備しても遅い。波は待ってくれへん」
教室の空気が、変わった。
それまで「売れたい」と思っていた若者たちが、はじめて「売れる」という言葉の重さを知った。それは栄光の話じゃなくて、一度きりの青春の話だった。何年も準備して、たった一度の季節のために全部を賭ける、という話だった。
あの教室にいた若者たちへ
この講義を受けた人間のうち、本当にテレビで名前を見るようになった人は、ほんのひと握りだ。
でも、売れなかった人間が「無駄だった」と思っているとは、俺には思えない。本気でやった人間には、別の扉が開いていったはずだ。それが紳助さんの言っていたことだった。
紳助さんが伝えたかったのは、芸人として成功する公式じゃなかった。もっとシンプルで、もっとしんどいことだった。
「自分を見ろ」
その一言のために、二時間あった。Xの話があった。Yの話があった。文字起こしのノートの話があった。竜介さんとの組み合わせの話があった。「辞めろ」という言葉と、「本気でやれば次がある」という言葉があった。最後に、涙ながらの「青春は一回だけ」という言葉があった。
自分を見ることの、難しさ。
それと向き合い続けた人間しか残らない世界で、紳助さんは自分自身を見続けてきた。だから言葉に重さがあった。きれいごとに聞こえなかった。涙にも、嘘がなかった。
教室の外には、夏の大阪の空気があった。
夢を持って入ってきた二十歳たちが、少し違う顔をして帰っていく。何かが刺さった顔で。少し傷ついた顔で。それでも、来た時より真剣な目をして。
あの日の講義は、「売れる方法」じゃなくて、「一度きりの青春に、本気で乗れる自分を作れるか」を問うものだった。
それは、芸人にならなかった人間にとっても、ずっと終わらない問いとして残る。
お前は、いま、本気でやっているか。その本気が、次の扉を開ける鍵になる。
紹介内容は以上になります。
紳竜の研究というDVDに内容は録画されていますので
興味のある方はぜひ一度手にとってみてはいかがでしょうか?^^
最後までお読みいただきありがとうございました。
また次回お会いしましょう、さようなら^^













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